信じることと自分の立ち位置。
付き合い始めた時から5年かかって、やっとどんさんを信じてみようとする。
どんさんが何かしでかしたとかいうわけではなく、単純に私が信じていなかった。 というか、信じていないことにようやく最近気づいたのだった。だって信じるってどうやるかわからなかった。
よく聞く言葉だけど、実際に自分では使ったことのない言葉。
信じることを考えたのは、「踊る大捜査線」を観ていて、室井さん(柳葉敏郎)と青島(織田裕二)の信頼関係はどのようにできたんだろう、とふと思ったことからだった。
私はあまり人のことを信じたことがないと思う。その人の言っていること、仕事ぶり、ということじゃなくて、その人そのもの、というか、「人」というもののこと。
好きだなぁと思う人はいる。でも信じるとは別な気がする。心は見えないから。
結局、自分から相手に心を開くことをしないから相手も同じだと思うんだと思う。警戒心がなんかやたらと強いんだろうなぁ。
だいたいどうやって人は人のことを信じるんだろう?
青島と室井はどうやって関係を作っていったんだろう。ドラマ観てたらわかるのかなー?借りてみよう。
私もまだ「信じること」の初心者だからうまく気持ちが説明できないけど、
どんさんのこと信じてみようと心でちゃんと思ったら、驚くほど気持ちが穏やかになってできるだけの協力をしようと思えた。
今まではどこかで保険をかけていたのかもなー。信じて裏切られたら私損しちゃうから自分のこともやっておかなきゃ、みたいな。
どんさんのやることに否定的になったりするのもコレだったのかな。
あと、自分の生きていくスタンスについて考えた。
私はずっと社会に正面から向かっていく自分を思い描いてきたけど、
実際はそうだろうか?
誰かのために何かをしたいとずっと思ってきた。
それは、自分の絵なり音楽なり私から直接生まれるもの、私が表現したものを手段として、誰かに届けられたら、と思ってきた。
だけど、もしかしたらそれだけじゃないのかもしれない。
どんさんのやりたいことを陰ながらバックアップすることも立派な私の表現活動になり得るかもしれない。
どんさんのやりたいことに積極的に関わっていくことでどんさんを通して私の想いを伝えることができるのかもしれない。
あくまで今は予感だけど、そんな気がする。
私は中学時代バレーボール部でセッターというポジションにいた。
セッターはアタックを打つ人にボールをあげる人のこと。
入部当初、私はアタッカーだった。バレーといったら花形はやっぱりアタッカーだと思う。かっこいいもん。
でも途中からセッターになるよう先生に言われた。ちょっと悲しかった。
初めはうまくボールがあげられないしアタッカーともタイミングが合わなくて大変だった。
けれどだんだんアタッカーひとりひとりの打ちやすい球がわかるようになったり、ネット際の結構重要な役割があったりしてセッターの楽しさややりがいを知った。セッターで良かったと思った。
そんなことを思い出して、私は表に出るよりも、表に出る人をアシストするほうが向いているのかも、と思った。
やっぱり表に出て光を浴びたい気持ちはある。
でも自分を活かせるのはもしかしたらこっちなのかも。
だからどんさんのアシストもうまいことできるかなー?